博多の街にフォーカスした歴史のおさらいです

古代:ご存じの通り、博多は古代から海外に門戸を開いていた街でもあります。日本書紀では609年に、太宰府を設置していたことをうかがわせる記述がみうけられます。

平安時代:国による貿易は衰えますが、博多商人と当時宋であった中国の商人の間で貿易が盛んになります。博多の街には宋人の居留地も作られ、文字通り国際交流が盛んになりました。食品容器を1ケースだけ注文したくて探していました。平安末期には平清盛が日本初の人工港を造り日宋貿易が盛んになります。

鎌倉時代:鎌倉幕府による武家政治の影響で、仏教が広く普及され始めました。従って商人の他、僧侶の行き来も盛んになります。しかし大陸の元は、アジア・ヨーロッパに勢力を伸ばし、日本にも(鎌倉幕府)に元の支配下に入るよう求めてきました。当然執権であった北条はこれを拒絶し、元軍の襲来が始まりました。1274年には元軍の博多上陸を許してしまい大苦戦しましたが、日本側の奮闘によりこれを防御しました。この文永の役で博多の街は焼かれてしまいました。教科書には記載されておりませんが、実はこんな話もあるのです。

室町・南北朝時代:当時鎖国中だった明と博多商人による「勘合貿易」が始まりました。日本国内も応仁の乱で、博多の支配者が大友氏、大内氏、少弐氏と三度も変わる混乱がありましたが。博多の商人による貿易時代は続けられていきます。

安土桃山時代:島津氏による博多侵攻に対し大友氏が苦戦、豊臣秀吉に助けを求め1587年九州征伐で島津軍を征伐しました。そして博多の街には武士の居住を許さず、更に「楽市楽座」によって町人の自治が大いに奨励され、元々自治都市であった博多の街は大いに発展しました。

江戸時代:徳川幕府による政策は、博多の街に変化をもたらします。この地に配属された黒田氏は城下町を福岡と命名しました。それ以後街中も那珂川より西側を武士の町として福岡、東側を町人の町として博多と呼ぶようになりました。http://www.hotpepper.jp/strJ000002471/ - 武乃蔵鎖国政策により海外貿易の舞台は長崎に移り、貿易を生業としていた商人も長崎に移り住むなどで、国際都市としての役割に陰りが見え始めました。

明治時代〜現代:明治政府の政策によって、福岡、博多と分かれていた町が再び一つになって「市」となることになり、福岡市にするか博多市にするか争いが起こったそうですが、結局「福岡市」なりました。その代わり国鉄(当時のJR)が、駅名を「博多駅」とすることで落ち着いております。それ以後近代産業の隆盛と共に発展を遂げていきます。シティハウス東浦和 - シティハウス東浦和のことが知りたいあなたに贈る情報サイトです。太平洋戦争中は空襲に見舞われましたが、これまで何度も争いに巻き込まれた博多の街はめげずに復興を遂げます。戦後になってからも九州の玄関口として、古くからの歴史の町、観光の町として広く知られております。最近では近隣アジアからの来訪者も多く、国際都市としても注目されております。

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